株式会社北村そば製粉
代表取締役 北村 えみ
令和6年春、現会長 北村 忠一と義父である、いとこの前副社長兼工場長の故北村邦昭が立ち上げた製粉所を引き継ぎました。
代替わりにあたり、長年の課題であったホームページをリニューアルしました。
長年のお客様にもわかりやすいよう、なるべく文字を大きく、お問合せが多い事項についてもホームページに盛込みました。
いままで、ホームぺージを担当してくださった方にご協力をいただきながら、私自身の手でつくっています。
自分でつくることで、現場の生の声をみなさまへ発信していきたいと思っています。
代替わりし、よく、会長の娘さんですか?と聞かれます。 答えは「NO」です。
会長との出会いは、全国麺類文化地域間交流推進協議会(現全麺協)の東京事務所スタッフとして、そばに関する業務に従事し始めた
頃です。
当時の全麺協は、全国のそば生産地の市町村が集まり、そばを通じた交流を通し、そばのブランド 価値を高めていました。
その中でも、そばの生産者として、最も精力的に動いていたのが、「幌加内町」であり「会長」でした。
幌加内町は1970年代の減反政策によって、そばの生産が盛んになりました。
冷涼な気候、昼夜の寒暖の差、朝霧が発生するなどの自然条件がそばづくりに適していたため、栽培面積も広がり、昭和55年、日本一のそば生産地となりましたが、幌加内町を知る人も少なく、浸透していなかったのが現実です。
私が初めて幌加内町に足を踏み入れたのは、第10回新そば祭り・世界そばフェスタinほろかないです。
当時、人口2,100人で4万人規模のイベントを行っていた幌加内町のマンパワーに圧倒されました。
認知度の低かった幌加内そばを全国に発信するため、そば先進地を視察し、町民を巻き込み、イベントをつくり上げてきたのが会長
でした。
当時の関係者の方々にお話を聞くと「あの頃は若かったからできたけど、大変で泣いた。でも楽しかった。」という声を聞きます。
変わって、先代副社長(工場長)との出会い。
初めて幌加内町を訪れた際に製粉所の現場の要であったのが工場長でした。
のちの義父になったのは、それからずいぶん先のことです。
いまの製粉所の製粉方法は、先代工場長が試行錯誤し、つくり上げてきました。
当時、製粉所のそば粉は、「打つのが難しい。」という噂も耳にすることもありました。
「北村さんのそばが打てるようになると腕も上がるんだよ。」というお話まで笑
工場長は、決まって「食べて旨い!」が一番でしょ。と、一貫した製粉をしていました。
月日が経ち、幌加内町に地域振興室 そば振興係が設置され、私は、神奈川県横浜市から移住してきました。
当時70代前半の会長は「幌加内町に来たからには何をしてくれるんだ?」と。しょっちゅう、私のもとにやってきました。
結局、契約の3年間、会長とともに幌加内そば発信のために動くことが多かったです。
この前後、幌加内のそばをPRして歩くと、夏場は「不味い!よね。」という厳しい声もあり、悩みの種でした。
契約終了後、縁あって、北村そば製粉の嫁となることになりました。
思いもよらなかった展開です。
平成29年、先代工場長は病に倒れ、そばの生産も製粉所経営も現役のまま亡くなりました。
そこから、義父であった、先代工場長の意思を受け継ぎ、そばの生産(大型トラクターやコンバインにも乗車)から製粉(製粉所独自の
製粉方法を継承)・加工、営業と携わることになりました。
移住してからこれまでに町内のそばの関連施設は、時の町長により、整備されました。
平成24年そば等穀類専用乾燥調製施設「日本一のそばの牙城」が立ち上がり、品質がさらに一定に保たれるようになりました。
また保管面においても、平成25年に幌加内町の豊富な雪を活用した倉庫「雪の御殿」が完成し、夏場のそばの劣化を防ぎ、旨みの増した
そばが年間を通して、提供することができるようになりました。
個人では難しいことを官民一体となり、幌加内町では進めてきました。
そばの栽培においての変化は、、、、
畑事情が年々変化しています。
当初、わが家は、そばのみの栽培であったため、雑草に悩まされることが多くなりました。
また、高温障害が見受けられるようになり、雨でソバが流されることもありました。まさに天候に左右されています。
そこで、令和5年、生産部門において、夫とともに会社を立ち上げました。
そば畑の地力アップを目的に輪作によって、違う作物を栽培し、雑草や天候に負けないそばづくりを進めています。
先代同様な動きはできませんが、現場に向き合い、製粉所に携わり、よいよい“そばづくり”に励んでいきます。
今後も畑から幌加内産にこだわった「そば粉」を提供していきます。